ラダははブログ
ラダックでの奮闘記を「ラダははブログ」に記録しています。
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記事一例
我が家のチャダル(往路を終えて)
チャダルを経てザンスカールにたどり着いた時、何とも言えない達成感と疲労感にとりつかれて夢中で書いたのが以下の文章です。
まずは往路編から「我が家のチャダル」レポートです。
我が家のチャダル~往路を終えて~
私たちは確かに凍った川の上を歩いた。
そばには常に川の存在を感じた。
完全に凍る場所、氷と氷のわずかなすきまから流れを表す川、そしてほとんど凍っていない場所。
実に様々な川の表情を見た。
青白く透きとおった美しい氷の上を歩く。
足の下で川の流れが音をたてる。
その氷の上に積もる雪が歩みを楽にさせることも、先を行ったそりが氷に刻むかすかな線が最も安全な場所を示してくれることも、歩みを進めるうちにわかった。
この川が初めて凍ったのはいったいいつの事なのだろう。
そしてこの凍る川が初めて道として使われたのはいつの事なのだろう。
凍った川の上を歩きながら答えの出ないとりとめのないことを考えた。
私はザンスカールの女たちが、たとえ妊娠中でも、生後間もない子供を連れていたとしても、チャダルを普通の冬の道として利用していることを知っていた。
だからザンスカールの人と共に生きてゆくと決めた私にとって、チャダルは何か使命のようなものだと感じていた。
息子が2歳を無事にむかたら、家族での初めてのチャダルはこの冬しかないと勝手に決めていた。
夫は何かあったら後悔するからと、私がこの冬に家族でチャダルに行きたいと言うのに反対した。
レーの人も口をそろえて子供だけは連れて行くなと言った。
でもザンスカールの人たちはみんな「チャダル中はとにかくあたたかくすること」と背中を押してくれた。
だから夫には悪いけれど、どんな状況でも家族そろって無事にザンスカールにたどり着けると確信していた。
私たちの往路のチャダルは2泊3日。
1月27日の朝7時にレーを発ち、ザンラの親戚の家に着いたのが29日の午後3時だった。
初日はチリンを過ぎたあたりからダンブチャンの洞窟まで。
2日目はダンブチャンからニェラクまで。
3日目はツァラクドまで。
それからツァラクドで待っていてくれた親戚と一緒にザンラへ車で向かった。
私たちの同行者は冬の巡礼を終えてザンスカールに帰る男性と息子、そしてその友人一人だった。
彼らは信じられない重さの荷物を運ぶ。
それなのに飛ぶような速さでひたすら歩く。
きっと彼らには、私には見えない羽のようなものが背中についているのだ。
私も彼らと同じように昼食と一回のお茶以外は歩みを止めずに、ひたすら先を目指した。
重い荷物や時には息子を背負っていたけれど、崖をよじ登った時も、危険な場所を行った時も、全く不安は感じなかった。
一歩歩くごとに愛しいザンスカールに近づいていると思うと、私はとても幸せな気持ちだった。
チャダル最大の難所と言われているのは「オマ」という場所。
私たちがオマを通ったのは3日目の朝だった。
しばらく歩いた後「オマを抜けた」という夫の声が前方から聞こえた。
私は歩みをとめて来た道を振り返った。
見えるのは凍った川だけ。
生命の気配は全く感じなかった。
私が蹴った氷のかけらが凍った川の上でカラカラと乾いた音を立てた。
その音が止んだ時、完全な静けさが私を包んだ。
休んでいる暇はない、また先を急ごうと前を向いてふと顔を上げる。
その時私が見たもの、それは岩の陰にひっそりとかかった蜘蛛の巣だった。
主は巣にはいなかった。
けれどその蜘蛛の巣からは生命の息吹を確かに感じた。
この真冬の最果てでけなげに生命の営みが行われている、その事に私は心底驚きそして心を打たれ励まされた。
凍った川の上に積もる雪の上に何度もユキヒョウの足跡をみた。
キツネの足跡、鳥の足跡をみた。
最大の難所と言われるオマ。
氷の状態が良ければ、オマを通ってヤクをつれた村人がリンシェとニェラクを行き来するのだと聞いた。
チャダルは地球がザンスカールに与えた粋な贈り物だと私は思った。
冬になって川が凍れば、ザンスカールの生き物はそれを利用する。
人もユキヒョウもキツネも鳥もヤクも。
ザンスカールで生命の営みがある限り、未来永劫ザンスカール川は冬のわずかな期間凍り続け、親から子へ、子からその子へとチャダルは受け継がれていくのだろう。
私の息子はわずか2才で母親と父親に背負われて初めてチャダルを経験した。
彼はこの先何度チャダルを歩くのだろうか。
いつの日かきっと自分の子供をその背中に背負ってチャダルを行く日が来るのだと信じたい。
終
---おまけ---
チャダル中の
私と
夫(背中に創一付き)
まずは往路編から「我が家のチャダル」レポートです。
我が家のチャダル~往路を終えて~
私たちは確かに凍った川の上を歩いた。
そばには常に川の存在を感じた。
完全に凍る場所、氷と氷のわずかなすきまから流れを表す川、そしてほとんど凍っていない場所。
実に様々な川の表情を見た。
青白く透きとおった美しい氷の上を歩く。
足の下で川の流れが音をたてる。
その氷の上に積もる雪が歩みを楽にさせることも、先を行ったそりが氷に刻むかすかな線が最も安全な場所を示してくれることも、歩みを進めるうちにわかった。
この川が初めて凍ったのはいったいいつの事なのだろう。
そしてこの凍る川が初めて道として使われたのはいつの事なのだろう。
凍った川の上を歩きながら答えの出ないとりとめのないことを考えた。
私はザンスカールの女たちが、たとえ妊娠中でも、生後間もない子供を連れていたとしても、チャダルを普通の冬の道として利用していることを知っていた。
だからザンスカールの人と共に生きてゆくと決めた私にとって、チャダルは何か使命のようなものだと感じていた。
息子が2歳を無事にむかたら、家族での初めてのチャダルはこの冬しかないと勝手に決めていた。
夫は何かあったら後悔するからと、私がこの冬に家族でチャダルに行きたいと言うのに反対した。
レーの人も口をそろえて子供だけは連れて行くなと言った。
でもザンスカールの人たちはみんな「チャダル中はとにかくあたたかくすること」と背中を押してくれた。
だから夫には悪いけれど、どんな状況でも家族そろって無事にザンスカールにたどり着けると確信していた。
私たちの往路のチャダルは2泊3日。
1月27日の朝7時にレーを発ち、ザンラの親戚の家に着いたのが29日の午後3時だった。
初日はチリンを過ぎたあたりからダンブチャンの洞窟まで。
2日目はダンブチャンからニェラクまで。
3日目はツァラクドまで。
それからツァラクドで待っていてくれた親戚と一緒にザンラへ車で向かった。
私たちの同行者は冬の巡礼を終えてザンスカールに帰る男性と息子、そしてその友人一人だった。
彼らは信じられない重さの荷物を運ぶ。
それなのに飛ぶような速さでひたすら歩く。
きっと彼らには、私には見えない羽のようなものが背中についているのだ。
私も彼らと同じように昼食と一回のお茶以外は歩みを止めずに、ひたすら先を目指した。
重い荷物や時には息子を背負っていたけれど、崖をよじ登った時も、危険な場所を行った時も、全く不安は感じなかった。
一歩歩くごとに愛しいザンスカールに近づいていると思うと、私はとても幸せな気持ちだった。
チャダル最大の難所と言われているのは「オマ」という場所。
私たちがオマを通ったのは3日目の朝だった。
しばらく歩いた後「オマを抜けた」という夫の声が前方から聞こえた。
私は歩みをとめて来た道を振り返った。
見えるのは凍った川だけ。
生命の気配は全く感じなかった。
私が蹴った氷のかけらが凍った川の上でカラカラと乾いた音を立てた。
その音が止んだ時、完全な静けさが私を包んだ。
休んでいる暇はない、また先を急ごうと前を向いてふと顔を上げる。
その時私が見たもの、それは岩の陰にひっそりとかかった蜘蛛の巣だった。
主は巣にはいなかった。
けれどその蜘蛛の巣からは生命の息吹を確かに感じた。
この真冬の最果てでけなげに生命の営みが行われている、その事に私は心底驚きそして心を打たれ励まされた。
凍った川の上に積もる雪の上に何度もユキヒョウの足跡をみた。
キツネの足跡、鳥の足跡をみた。
最大の難所と言われるオマ。
氷の状態が良ければ、オマを通ってヤクをつれた村人がリンシェとニェラクを行き来するのだと聞いた。
チャダルは地球がザンスカールに与えた粋な贈り物だと私は思った。
冬になって川が凍れば、ザンスカールの生き物はそれを利用する。
人もユキヒョウもキツネも鳥もヤクも。
ザンスカールで生命の営みがある限り、未来永劫ザンスカール川は冬のわずかな期間凍り続け、親から子へ、子からその子へとチャダルは受け継がれていくのだろう。
私の息子はわずか2才で母親と父親に背負われて初めてチャダルを経験した。
彼はこの先何度チャダルを歩くのだろうか。
いつの日かきっと自分の子供をその背中に背負ってチャダルを行く日が来るのだと信じたい。
終
---おまけ---
チャダル中の
私と
夫(背中に創一付き)